ART iT 7 November 2016
ジュリア
ジュリア ドグラ ブラッツェル
クロニクル オブ サウンド
アートラボ アキバ
文章に行間という魅力的な余白があるのと同様に、ジュリアの映像には魅力的な余白がある。
わたしには未だにその魅力が何なのか、わからないが、わからないからこそ、魅力であり、魅了されるのだと思う。
いきなり身も蓋も無い書き出しで始まってしまったが、彼女に会って、「これはてごわい映像作家だな」と直観した。そして映像作品を数本観て、わたしの直観が間違っていないことを深く確認し、「みなさんは、それぞれの場所で、それぞれの機会で観るといいでしょう」というような投げやりな言葉を何処かに書き残して、座を離れようとしている。
というのも、映像作家という人たちの目論見が、まず、わたしにはわからない。
わからないことに、また輪をかけて、サイレント映画のそのサウンドを聞くようにしむけられている。
わたしはアートラボアキバのスクエアなエコーのかかる空間に居て、彼女のスプリットされた映像の音の背景を探りはじめる。環境音の背景にも、独特な湿度を感じ、これがロンドンの湿気というものなのだな、と妙に感心したり、いや、まてよ、音はまた別の場所で採集されているのかもしれない、と余計な詮索をし始めたりしている。
ジュリアは近くを走る列車の音を嫌ったが、わたしはそれほど気にならなかった。もちろん作者の意志は尊重されるべきだが、外界との雑音的関係を遮断せずに、マスキングされる耳の意識を調節し直すことが出来ることを、あらためて発見した。
記憶の中の音との擦り合わせも。

わたしは彼女の話し方が好きだ。
これも、座っているのが好きな人のための作品なのかもしれない。
上映展示の常で、映像はループ再生されているのだが、そのループポイントを探し始める自分に、どこか小心者さを感じ、すこし照れる。
照れていても、空間の中ではその照れの素振りまでは他人にはわからない。
アップリンクでの上映を終えた彼女は二週目に入ってアートラボアキバの手前の部屋でも上映を仕組んでいた。アップリンクの上映には二部の、彼女のテイストに似たものを上映していたものを観たので、彼女の作品を観ようとするわたしにとっては、ありがたい計らいだった。
幾つかの機材の不備などで上映時刻がずれ込んでいたようだけれど、そういう小さなアクシデントも、初体験のわたしには嬉しい出来事だ。
モノクロームの映像の、林の木々が揺れるとき、そこに緑色が現れた。ある瞬間のマジックだろう。人によっては他の場面で色を見つけるのかもしれない。
ファンタジックな錯覚を呼び起こすほど、コアな視点を持っている彼女の仕事の行く末をわたしは眺めている。
繰り返し言う。
わたしは彼女の話し方が好きだ。
そして、映像言語としても。
© Goso Tominaga 2016